講師紹介

🌹丹下千華子のストーリー🌹

ピアノを始めたきっかけ

物心がつく前の話。『カラスの赤ちゃんなぜなくの~』と誰かが歌うと必ず泣き出すのだそうでした。周りの大人が面白がって、度々その歌を歌っては泣かせていたそうです。ところがある日誰かが間違って『かーらーすーなぜなくのー』と歌っても全く無反応!?さてこの二曲の違いといえば?『カラスの赤ちゃん』の歌は短調。つまり悲しい感じの曲。『かーらーすーなぜなくのー』の歌は長調つまり明るい感じの曲。実はわずか一歳程度でこの二つの音階を聴き分ける力、いわゆる絶対音感が有りました。実家にはオルガンがあり、毎日そのオルガンで遊んでいるうちに、程なくして、個人のピアノの先生のところに通うことになりました。

そこそこのびのびのピアノ

音高に入るまで10年余り学んだ先生は、小学校の音楽専科の先生でした。優しく、穏やか、練習していていなくても叱られることもなく、学校で合唱の伴奏をする程度では不自由も無く、のびのびとただ何となく通っていました。逆に言えば、音楽とはどういうものか、技術も音楽性も、何一つ教わってはおらず、またその事に何の疑問も感じる事のない数年間を過ごしました。

人生の転機になった実家との別れ

私は二人姉妹の長女。要領の悪い、少しばかりぼんやりした、親の期待になかなか答えられない、そんな存在でした。幼い頃から強度の近視で、すれ違う知り合いの顔や、遠くの景色や、バス停の時刻表や商店街の看板の文字など、およそはっきり見えた事のない世界で幼い頃を過ごしました。共働き家庭の私の母親は今でいう毒母傾向にあり(当時はそんな言葉はありませんでしたが)その過干渉と過支配から逃れたく、ただその一心で、高校進学時に、名門公立高校の合格を辞退し、県内唯一の音楽科のある私立済美高校へ入学と同時に寮に入り15歳で実家を出ました。

ただ毒母やそれまでのしがらみから逃れたい一心で、音楽の道に進むことでしか自分を肯定し本当の自分を取り戻すことが出来ない、そう思い込んでいました。

初めての挫折

音高での生活はこれまで体験した事もない世界であると共に、クラシック音楽の奥の深さ、ピアノ音楽の本当の素晴らしさをそこで知る事となりました。と同時にこれまで受けてきた音楽教育のレヴェルの低さ、自分の演奏の稚拙さ、音楽性のなさ、自分の実力のなさを思い知らされる事となりました。ピアノを学んでの十年余り、音楽の何たるか、ピアノの何たるかなど何一つ教えられていなかったのです。今にして思えば初めての挫折でした。

学生寮で生活していた私は、早朝に登校し、5階のピアノ練習室で、早朝から、また放課後も土日も関係なく、授業以外はひたすら練習に明け暮れました。毎日毎日ひたすら練習しひたすら充実し、新しい曲を貰うとその楽譜を抱きしめて眠りました。お陰で卒業演奏会ではオープニングの大役を見事に努めることができました。

大学受験の失敗

当時の音高では演奏曲、受験校はおろか、学校内外の習いたい先生も自由に選択する事が出来ず、音大の夏期講習でさえも学校の許可がなければ参加することは出来ませんでした。そんな中で3年間を過ごし、あろうことか、第一志望の音大の受験に失敗してしまいました。

地方の音高からある程度の期待を持って送り出され、実家の家族にも大きな負担を掛けて音高に行かせてもらったのに、恩師や親の期待に応えらなかった事を悔いて、自分を許すことが出来ず、つい最近までこのトラウマから逃れられず、人生の大半を自己否定をして過ごしてきました。

更なる試練

虚無感のみの大学生活が三年程続いた頃、地元での教育実習をきっかけに、教員を目指しました。今日行く実習で高得点を貰い、早朝から深夜まで教員試験の勉強に励む毎日。目標に向かって努力する才能だけは誰にも負けない自信がありました。

その努力が実り、夢を叶え、晴れて憧れの職業を手に入れる事ができました。

しかし公立高校教諭となって夢をやっと実現したのも束の間。

ある日の放課後、最寄り駅で喫煙中の生徒に遭遇し、やむなくその生徒に注意をし結果的にその生徒を処分する事となった事件がありました。

職員室では同僚から、『俺だったら見逃してやったかも。』などと耳元で囁かれたり、学校の廊下や駅の階段で、女子生徒達から大声で罵倒されたり、当事者のクラスでは仲間の生徒の反発で授業妨害の騒ぎにもなりました。

新任の世間知らずの音楽科の教師など、成長期の生徒の反発の捌け口にしかならず、職員室でも孤立していました。

追い詰められるばかりの時間を過ごし、およそ今まで育ってきた華やかな音大の世界とは無縁の、色あせた世界でした。

学生時代のアルバイトで経験したピアノの先生の立場では、ある程度までしか生徒の家庭に踏み込むことが出来なかった事が、教師を目指した理由でしたが、結局、それぞれの家庭や親子や不安定な高校生の心に踏み込める知識も経験も実力も当時の私には有りませんでした。

その頃から不眠、動悸、不安感等が始終付きまとい、軽いうつ状態になりました。

不登校児の復帰

そんな中でも私を慕ってくる生徒もいました。中でも、自傷経験のある不登校気味の男子学生が毎日のように5階の音楽準備室を訪れ、私の自宅に電話をしてきました。当時は学校から配布される名簿があり、先生の自宅も連絡先も当たり前の様に掲載されていました。

毎日毎日、礼儀正しく電話をかけて来て、一方的に話をし、こちらはそれをただ聴くばかり。

カウンセラーの資格はありませでしたが、一切先生という立場での意見は言わず、毎日長い時で1時間程、世間話や彼の持論など、つかみどころのない話をただただ聴いていました。

担任や保健の先生とも連携をとりながらでしたが、結局私との対話をきっかけに、少しずつ前向きになり、登校する気持ちになりました。

ある程度の単位を取得させ、結果的にその生徒をアメリカの学校へと送り出すことが出来ました。

教え子の活躍

私が音高音大で身に付けた、音大受験に欠かせないソルフェージュのスキルは、高校教師時代は無償の補習授業という形で、普通科の音大受験の高校生に提供しました。

その甲斐あり、くにたち音大、武蔵野音大、洗足学園音大、玉川学園大学音楽科、昭和音楽大学、お茶の水女子大学、フェリス女学院大学等へ進学させることが出来ました。

生涯の師との出会い

恩師との出会いは突然に訪れました。ある時ウイーンアカデミーの先生のご自宅でピアノを生で聴かせて頂き、突然身体中が熱くなり全身が震え、涙が止まらなくなりました。ピアノの音であれほど胸が震えた事などそれまでの人生でありませんでした。自分の中の頑なな何かが解ける感覚をもち、感じた事のない、穏やかで温かく崇高な響きが胸に染み渡りました。その人の鳴らすピアノの音には温度があり、心を包み込む様な心地良さや暖かさが有りました。これまで自分が耳にして来たものは一体何だったんだろう?一体自分が目指してきた物は何だったのか?そもそも音楽とは心を豊かにするものではないか?、、、テクニックやメカニックばかりに目を奪われ、そつなく演奏すること以外考えもしなかった・・、そんな自分に唖然としました。それから10年以上、それらの先生から崇高な音楽性を身に付けられるまで、沢山の時間を費やしました。

2〜3歳からピアノ教育を推奨する理由

もし私の絶対音感に周りの大人が早く気づき、早期の充実した音楽教育を受ける事が出来ていれば、私にはもっと異なる人生があったのかも知れない。その気持ちはピアノレスナーとなった今も変わりません。たとえ趣味で習う生徒さんであっても、それぞれの能力や特性、個性を見極めある程度以上の芸術的レベルまでは到達させる、そういった理念を持って指導をしていきたいと思っています。

持てなかった自己肯定感

環境と親の影響は自分で思っているよりずっと強く深く永いものです。

高度成長期には、成長や向上の対策の一つとして、周りと比較し競争し互いに高め合う事は有効な策の一つとして考えられます。

しかしその本質を理解していない、心ない評価に苦しむ子供達は決して少なくありません。今も昔も、子供達は比較され評価される機会が本当に多く有ります。だからこそ、その生徒さんならではの個性と特性、能力を見極め、ピアノ教育からつながっていけるその生徒さん固有の絶対的な能力を発掘し発展させることがいまのピアノ講師の使命だと考えています。

学校では学べないこと

習い事は義務教育ではありません。無理にしなくてもよいのです。でも習い事には学校では決して学ぶことのできない価値のある経験が出来るという側面があります。楽譜を読み音を覚え、毎日家で練習しレッスンに行く。そして発表会では人前で演奏する。コツコツ努力する事、新しいことに挑戦する事、人の評価に惑わされないで正しい事を貫く。そこには挫折もあれば喜びもある。この一つ一つの小さな事の積み重ねこそが、大人になった時、社会に出た時、大きな自信や力となるのです。

 

ピアノの先生は第2の母
ピアノの先生は、生徒さんと、親子のような縦の関係でもなく、友人知人の横の関係でもなく(ななめの関係というのだそうです)生徒さんを客観的に見守り、見極め、ここぞというときにしっかり導く事が出来ます。そしてそれは生徒さんのその後の様々な可能性を広げ、その後の人生を大きく左右します。幼少からずっと長いスパンで時間を共に過ごす、ピアノの先生だからこそ成し遂げられるのです。

 

ピアノの先生として伝えたいこと

楽しくピアノを学び、音楽の本質を知り、その後の人生を最大限に楽しく有意義に過ごす。これこそ学校では出来ない、ピアノレッスンという習い事に課された役割です。

今私がピアノの先生として『100パーセントその生徒さんの良さを見出し、指導します』と断言出来るのは、自分やその周囲で起こったこれまでの様々な苦い経験全てを受け入れる事が出来たからこそだと思います。

どんな挫折があっても、人生に無駄なことなどない、苦難も、喜びもどんな経験も、みんな大切な宝ですよ!と、これからも私の生徒や保護者の皆さんにお伝えしたいです。

【プロフィール】

愛媛県西条市出身。

幼少期より絶対音感を持ち5歳からピアノを始める。

中学生時代はテノール歌手秋川雅史氏育ての親、

寺田親良氏指導のもと

合唱部で伴奏者として学ぶ。

当時はまだ無名の(現在は甲子園出場常連校)済美高等学校の音楽科に入学。

卒業時には代表として卒業演奏会に出演。

高校3年進級時に声楽専攻と迷うが、ピアノ科担当教諭の華やかさに憧れピアノを専攻。

恩師寺田親良氏の出身校である東邦音楽大学へ進学。

ピアノ科卒業。3年時に一念発起し教師を目指す。

神奈川県立津久井浜高等学校教諭に就任。

就任中は不登校生徒等の相談役としてカウンセリングにも携わる。

音大受験生へのソルフェージュ、音楽理論等の指導に力を注ぎ多数の音大合格者を輩出。

退職後は後進の指導にあたる。指導した生徒の数は200名以上

東音コンクールでは度々入賞者を輩出

その後長女の小学校入学を機に演奏活動を再開

第2回21世紀ピアノコンクール及び

第3回万里の長城杯国際コンクール入賞

国際芸術連盟演奏家会員 ピアノ指導者協会ピティナ会員

育脳ピアノレッスンの教科書認定講師、ビジョントレーナー認定資格取得

リトミック協会認定講師、どれみ先生認定講師、

現在、混声合唱団、女声合唱団の伴奏及び指導、

10年間、王子の狐のミュージカル合唱団・ミュージカル:サラサとルルジ合唱団の指導及び伴奏にあたる。

2年に一度のチャリティコンサート『ビジュウ:コンサート』を開催。

売り上げの全てをエルシステマ:ジャパンに寄付。

声楽アンサンブル「アンサンブル:ティアラ」主宰。

ピアノアンサンブル「デュオ:アンジェリーナ」主宰。

ケアセンター、介護施設、学校への訪問演奏、ボランティア演奏等の活動を行う。

ピアノを上田由美、塩島貞夫、高井清志、伴奏法を安藤由布樹、声楽を山村容子他の各氏に師事。

講師ameblo

こちらでも発信しています。

https://ameblo.jp/ange-piano-2021/