講師紹介
🌹丹下千華子のストーリー🌹
ピアノを始めたきっかけ
物心がつく前の話。『カラスの赤ちゃんなぜなくの~』と誰かが歌うと必ず泣き始めるのだそうでした。周りの大人が面白がっていつもその歌を歌っては泣かせていたそうです。ある日誰かが間違って『かーらーすーなぜなくのー』と歌っても全く無反応!?さてこの二曲の違いといえば?『カラスの赤ちゃん』の歌は短調。つまり悲しい感じの曲。『かーらーすーなぜなくのー』の歌は長調つまり明るい感じの曲。実はわずか一歳程度でこの二つの音階を聴き分けていました。実家にはオルガンがあり、毎日そのオルガンで遊んでいるうちに、気が付くと個人のピアノの先生のところに通っていました。
そこそこのびのびのピアノ
二番目についた先生は父親の大尊敬する、なぜか小学校の音楽専科の校長先生。当時はそういった先生に習う子も多かった時代。市内のピアノの先生の数など知れており、そういえば私の大学の先輩に当たる超怖い事で有名な先生も近所にいらっしゃいました。私のついた先生はからはピアノのテクニックも音楽性も殆ど教わった記憶がなく、のびのびとただ何となく通うだけのだらだらした数年間が続きました。それでも発表会では、よその学校のうまい子たちがこぞって大曲を演奏し、そこそこの努力しかしてこなかった私は、その時だけは、やはりそこそこ肩身の狭い思いをしておりました。
人生の転機になった実家との別れ
私の母親は今でいう毒母傾向にあり(当時はそんな言葉はありませんでしたが)その過干渉と支配から逃れたく、高校生になるとき、名門高校の合格を踏み倒し県内唯一の音楽科のある私立済美高校へ入学しました。今でこそ甲子園出場の常連校ですが、当時は無名の女子高でしかありませんでした。ただただ音楽がやりたい一心での選択でした。そこでこれまで体験した事もない、音楽そのものの深い理解、ピアノ音楽のすばらしさに感銘を受けました。と同時にこれまでの音楽経験の稚拙さ、自分の実力のなさを思い知らされることとなりました。ピアノを学んでの十年余り、音楽の何たるか、ピアノの何たるかなど何一つ教えられていなかったのです。。学生寮で生活していた私は、早朝に登校し、5階のピアノ練習室でピアノを取り合い、放課後も土日も関係なく授業以外は練習に明け暮れる日々でした。毎日毎日ひたすら練習しひたすら充実し、新しい曲を貰うとその楽譜を抱きしめて眠りました。卒業演奏会ではオープニングの大役を見事に勤めました。
大学受験の失敗
当時の音高では演奏曲、受験校はおろか習いたい先生にも自由に選択する事が出来ず、音大の夏期講習でさえも学校の許可がなければ参加することは出来ませんでした。そんな中で、あろうことか、第一志望の音大の受験に失敗してしまいました。地方の音高からある程度の期待を持って送り出され、実家にも散々負担を掛けた上に期待に応えられない自分はやはり、、、親からもさほど愛されない存在でしかありませんでした。つい最近までこのトラウマから逃れられず、人生の大半を自己否定ばかりの虚しい時間を過ごしてきました。
更なる試練
虚無感のみの大学生活が三年程続いた頃、地元での教育実習をきっかけに、教員を目指しました。早朝から深夜まで教員試験の勉強に励む毎日。目標に向かって努力する才能だけは誰にも負けない自信がありました。。。しかし公立高校教諭となって夢をやっと実現したのも束の間。ある日の放課後、最寄り駅で喫煙中の生徒に遭遇し、他の生徒もその場にいた事から見逃す訳にはいかず、その生徒を処分する事となった事件がありました。同僚から、『俺だったら見逃してやったかも。』などと耳元で囁かれたり、廊下で私の事を嫌いな女子生徒達から罵倒されたり、当事者の友人のクラスでは授業にならないような騒ぎになりました。音楽科の新任の世間知らずの教師など職員室でも孤立していました。およそ今まで育ってきた華やかなクラシック音楽の世界とは無縁の、色あせた世界でした。学生時代のアルバイトで、ピアノの先生の立場では、ある程度までしか生徒さんの家庭に踏み込むことが出来なかった事が高校教師を目指した理由でしたが、ここでもやはり、それぞれの家庭や親子関係や生徒たちの心に踏み込む覚悟や知識や経験は当時の私にはありませんでした。
その頃から不眠、動悸、不安感等が始終付きまとい、軽いうつ状態になりました。
不登校児の復帰
そんな中でも私を慕ってくる生徒もいました。中でも、自傷経験のある不登校気味の男子学生が毎日のように自宅に電話をしてきました。当時は名簿があり先生の自宅も連絡先も普通に出回っていました。ただ一方的な話を聴くばかり。カウンセラーの資格もなく、恐らくこの子は聴いて欲しいのだろうな、と思えたので説教じみたことは一切言わず、毎日長い時で1時間程、彼のつかみどころのない話を聴く時間を過ごしました。それをきっかけに少しずつ登校するようになり、単位が取得できるまでに復帰させ、結果的に彼をアメリカ留学へと送り出すことが出来ました。
教え子の活躍
私が音高音大で身に付けた、音大受験に欠かせないソルフェージュのスキルは、高校教師時代は無償の補習授業という形で、普通科の音大受験の高校生に提供しました。
お陰で、くにたち音大、武蔵野音大、洗足学園音大、玉川学園大学音楽科、昭和音楽大学等へ進学させることが出来ました。
またピアノ教室の卒業生は、音大以外にも、一橋大学、青山学院大学、ICU、上智大学、フェリス女学院大学、他名門大学へ進学する事が出来ました。また夢をかなえて女優さんになった人やイルカトレーナーになった人もいます。
生涯の師との出会い
恩師との出会いは突然に訪れました。ある時ウイーンアカデミーで学ばれた先生のピアノを聴き涙しました。ピアノの音であれほどむねが震えたことなどそれまでの人生でありませんでした。そしてこれまでの自分の中のかたくなな何かが崩れ、固く閉ざしていた心が緩む様な、感じた事のない、穏やかで温かく崇高な響きが胸に染み渡りました。その人の鳴らすピアノの音には温度があり、心に 寄り添う様な、心地良い響きでした。今まで自分が耳にして来たものは一体何だったんだろう?そもそもいったい自分が目指してきた物は何だったのか?そもそも音楽とは心を豊かにするもの、、、テクニックやメカニックばかりに目を奪われ、そつなく演奏すること以外考えもしなかった自分に唖然としました。それから10年以上、その先生から崇高な音楽性を身に付けられるまで、沢山の時間を費やしました。
自分が今ピアノの先生として思うこと
ピアノの先生は、生徒さんと、親子のような縦の関係でもなく、友人知人の横の関係でもなく(ななめの関係というのだそうです)生徒さんを客観的に見守り、寄り添い、見極め、ここぞというときにしっかり導く事が出来ます。そしてそれは生徒さんのその後の様々な可能性を広げ、その後の子供たちの人生を大きく左右します。
楽しくピアノを学び、しかも音楽というものの本質を知り、生き生きと有意義に過ごす。
これこそ学校では出来ない、ピアノレッスンという習い事に課された役割です。
今自分がピアノの先生として100パーセントその人それぞれの良さを見出し指導できる!と断言出来るのは、自分やその周囲で起こったこれまでの様々な苦い経験全てを受け入れたからこそだと思います。
そして、人生に無駄なことなどない、苦難も、喜びもどんな経験も、みんな大切な宝ですよ!と、これからも生徒や保護者の皆さんに伝えたいです。
【プロフィール】
愛媛県西条市出身。
幼少期より絶対音感を持ち5歳からピアノを始める。
中学生時代はテノール歌手秋川雅史氏育ての親、
寺田親良氏指導のもと
合唱部で伴奏者として学ぶ。
当時はまだ無名の(現在は甲子園出場常連校)済美高等学校の音楽科に入学。
卒業時には代表として卒業演奏会に出演。
高校3年進級時に声楽専攻と迷うが、ピアノ科担当教諭の華やかさに憧れピアノを専攻。
恩師寺田親良氏の出身校である東邦音楽大学へ進学。
ピアノ科卒業。3年時に一念発起し教師を目指す。
神奈川県立津久井浜高等学校教諭に就任。
就任中は不登校生徒等の相談役としてカウンセリングにも携わる。
音大受験生へのソルフェージュ、音楽理論等の指導に力を注ぎ多数の音大合格者を輩出。
退職後は後進の指導にあたる。指導した生徒の数は200名以上
東音コンクールでは度々入賞者を輩出
その後長女の小学校入学を機に演奏活動を再開
第2回21世紀ピアノコンクール及び
第3回万里の長城杯国際コンクール入賞
国際芸術連盟演奏家会員 ピアノ指導者協会ピティナ会員
育脳ピアノレッスンの教科書認定講師、
リトミック協会認定講師、どれみ先生認定講師
現在、混声合唱団、女声合唱団の伴奏及び指導、
10年間、王子の狐のミュージカル合唱団・ミュージカル:サラサとルルジ合唱団の指導及び伴奏にあたる。
2年に一度のチャリティコンサート『ビジュウ:コンサート』を開催。
売り上げの全てをエルシステマ:ジャパンに寄付。
声楽アンサンブル「アンサンブル:ティアラ」主宰。
ピアノアンサンブル「デュオ:アンジェリーナ」主宰。
ケアセンター、介護施設、学校への訪問演奏、ボランティア演奏等の活動を行う。
ピアノを上田由美、塩島貞夫、高井清志、伴奏法を安藤由布樹、声楽を山村容子他の各氏に師事。
講師ameblo
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